INTERVIEWアーティスト・クリエイターズインタビュー

及川 正通

アーティスト・クリエイターが彩る色彩の世界

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36年間『ぴあ』の表紙イラストを描き続け、時代の顔を独自の視点で捉えてきた及川さんが語る〈色〉とは?

及川さんのイラスト作品は人物画を主としていますが、色を扱う際に意識していることはありますか?

自分の好きな色があると、仕事上それが非常に邪魔になっちゃうんですね。どうしてもその色に傾きがちになってしまいますから、出来るだけそれは持たないようにしています。ただ、便利な色というものがあるんですよ。僕の場合、それが黄色だと思っているんですね。黄色は元気が出るような明るいイメージというかね。緑や赤に傾いたりすることによって、随分と色の調子が変わってくるんです。黄色に対応できる色が非常に多い。困った時の黄色みたいなところはありますね。

人物画を構成する色として、肌色の占める割合が大きいと思いますが、黄色は肌色を作る時にも使いますか?

若干入れます。特に肌色は表情を随分と決めてしまいますよね。肌色を決めるのに、最近はデジタルで着色もしていますから、何通りも入れ替えてやったりします。その場合は、マゼンタ何%に対して黄色何%という具合に細かく変えていったりしてね。それともう一つ、僕の場合はディテールを点描で描いているでしょう。点描の場合は墨なんですが、墨の点描の中に入っている藍を95%ぐらい抜いちゃうんです。そうすると、マゼンタ系に傾いていくんですね。点描そのものが赤っぽくなっていく。肌色のピンクに対して同調していくというか、あまりきつく出ていかずに柔らかくなるんです。

代表作である『ぴあ』の表紙イラストを手掛けるようになった経緯を教えていただけますか?

取っ掛かりは、ぴあの矢内社長がある日突然電話を掛けてきて。彼がまだ23歳ぐらいだったでしょうか。仲間と集まって『ぴあ』を始めたばかりの時期ですね。当時の僕は完全にヒッピーみたいな格好をしていましたけど、彼は着古した紺色の背広を着て、風呂敷包みを抱えてやってきたわけですよ。その風呂敷包みを解いて出したのが当時の『ぴあ』でした。それで表紙を頼みたいということから始まって、「わかりました」ということで承諾したんですが、三日後に当時の『シティロード』からも表紙の依頼があったんですよ。

『ぴあ』の最たる競合誌ですよね。

なぜかというと、僕のアシスタントをやっていた人間がその編集部に入ってデザインを担当し始めて。それで僕に表紙を描いてもらうことになりましたと、なんだか知らないけど勝手に決まっていて(笑)。それで中身を見たら、『ぴあ』も『シティロード』も同じで、これは両方描く訳にはいかないだろうと。「義理があるとしたら君の方だから」ということで、『シティロード』の方を描くことに決めたわけですよ。それで『ぴあ』を断ろうとして矢内さんに電話をしたら、「そんな話はないでしょう。少なくともウチの方が三日早い」ということでね・・。

でも、『ぴあ』側のお気持ちも分かります(笑)。

当時の僕は仕事そっちのけでミュージシャンをやっていましたから、あちこちのライブハウスで演奏していたわけですよ。ある日、郡山の体育館でワンステップフェスティバルというロックフェスティバルがあって、そこに出演していたら、目の前に矢内さんがいたんです。「いやいや、こんなに僕のイラストレーションを求めてくれるんだから、ありがたいと・・」と、そこから始まったということですね。

表紙を手掛けるにあたって、何か明確なルールがあったんですか?

それが一番問題ですよね。僕は引き受けるにあたって、一つだけ大事な約束を頼んだんです。「何を描くか、それをどう描くのかも僕に決めさせて欲しい。それさえ守っていただければ、僕流のイラストレーションの躍動感が表現出来ると思います。」と色々話してね。システムとしては、編集部の方から何人か表紙の候補を挙げてきてもらって、その中から僕のインスピレーションで選んでいくというやり方で、時にはちっともピンと来ないものがあったりすると、選び直すというやり取りを36年間やってきました。それを最後まで守り通してくれたおかげで続いたんだと思いますね。

及川さんが最初に描いた表紙は1975年のジーン・ハックマンですよね。

そうですね。『フレンチ・コネクション2』ですか。

それから2011年7月の休刊に至るまで、まったく作風がぶれていませんよね。

僕は自分が描くものの中に、自分流のパロディの感覚が欲しいから、そういうものが入り込めないと描けないんですね。一貫してそれがあるとは思いますけど、扱うものによってはそれが面白かったり面白くなかったりする場合があって。広末涼子の髭剃りの絵があるでしょう。あれなんかは勝手にドラマを作って描いているから、そういうものが出来ると面白いんですよ。本人は「なんで私が髭を剃ってるの?」なんて言ってましたけど、それでいいんです。17,18歳の女の子が朝慌てて起きてきて、身支度をしようとした時に、父親が慌てて髭を剃っていったカミソリを自分の頬に当てることによって父親の温もりを感じる・・。そんなドラマを勝手に作ってから表紙を描いていたんですよ。

イラストを描くよりも構想を練る時間の方が長そうですね。

まさに考える時間の方が長いですね。僕は意外に描きだしたら早いんですよ。仮に五日間必要だとしたら、考える時間が三日ぐらい掛かりますね。だから、ぴあが週刊だった時は壮絶でした。頭の中で考えることが来週、再来週とダブってましたね。

あの身体よりも顔が大きいデフォルメされた人物画は、どうやって生まれた作風なのですか?

はっきりしたものではないんですけど、僕は基本的に人間を描きたいから、顔の表情が一番ものをいうんです。だから顔をピックアップすると、どうしても身体よりも大きくなってくる。それから、ちょっとコミカルな表現をしたいものですから、バランス的に自然とそうなっていったんじゃないでしょうか。振り返れば、寺山修司さんと仕事をさせていただいていた『天井桟敷』時代にそういうものが養われていったのかもしれませんね。寺山さんとの打ち合わせも壮絶でしたよ。「喫茶店に来てよ」と言われて行ったら、30分、40分も何も言わずに僕の前に座ってるわけです。すると突然、「次の芝居はガリガリ博士の犯罪。イメージはアヘン戦争時代の雰囲気かな。よろしくね」なんて言って帰っちゃうんですよ(笑)。僕は「分かりました」とその場では言うんですけどね。

絵を描くにも情報量があまりにも少ないですね(笑)。

何でもいいから勝手に描けということだろうと解釈して描いたんですね。そうすると出来上がったものを見て、寺山さんがニヤッとするんです。それは良かったということなんだろうと思って、ほっとしながら後日、芝居の公演を見たら、僕がポスターに描いたキャラクターが全て登場してくるわけですよ。そういうスリリングなやりとりを寺山さんとの仕事で味わったんですね。相手に僕がイメージする範囲を広げてもらうほど僕の絵の世界が広がっていくことを実感したので、ぴあが始まる時はそこを強調して頼んだんですね。そういう注文を付けたんです。

『ぴあ』の一つひとつの表紙を眺めていると、どこか異国感が漂っているんです。そういった感覚は及川さん自身にもあるのでしょうか。

僕が満州の大連で生まれ育ったということが大きいと思いますね。育ったというほど長くはいなかったけれども、小学校一年生になるまでは大連にいましたから、物心がつく頃に目の前に飛び込んできたものは、全てヨーロッパの街並みなんですよ。大連はロシア人が作った街ですからね。駅を中心にしてロータリーがあって、そこから放射状に道路が伸びていて。その道路に沿って、レンガ建てのヨーロッパスタイルの家が立ち並んでいるんです。そこへアカシアの並木道も続いていて、道路は石畳なんですね。

まさにヨーロッパのイメージですね。

これが僕の幼児体験です。それと1930年代から後半にかけての、いわゆるハリウッド時代。あの雰囲気が僕の中にどこかで入り込んで来ていたのかもしれません。それを蘇らせるきっかけを作ってくれたのは横尾忠則さんなんですよ。横尾さんと一緒に事務所を持って仕事を始めたものの、目の前にあれだけの強烈な才能な人がいるわけですから、同じく空間を共にすればするほどプレッシャーが掛かって、「自分のオリジナルってどう探せばいいんだろう?」と毎日のように模索していたんですね。横尾さんは日本の土着性をテーマにしていましたから、「自分の土着性ってなんだろう?」と振り返ってみたら、ふと自分の中に蘇ってきたのが大連の風景でした。これも偶然ですけど、僕は大連を引き上げてきてからは横須賀で育ったんです。横須賀という街はまたアメリカでしょう。そういった流れから、僕の中に入り込んできたバタ臭さみたいなものが、絵の中に自然と出てきているかもしれません。

大連や横須賀での生活はご自身の色彩感覚が培われていく上でも影響していますか?

相当あるでしょうね。あとは、僕が横須賀で勤めたのがデパートだったということも影響があると思います。デザインの基礎を勉強したのはデパートなんですよ。僕にとってすごく幸運だったと思うのは、一時はデパートデザインとデパートカラーという時代があったんです。どことなく女性的な色のハーモニーを表現するデパートという存在があって、髙島屋にしても西武にしても、それぞれの個性を持っていたんですけれども、僕はその中でも髙島屋カラーが好きでね。それに随分と影響されました。

どんな色使いだったのでしょうか。

ちょっと赤紫掛かったものの隣に朱赤が来たりして、同系色だけれども、その二つが重なることで、すごく女性的で甘い香りのするような色合いが出来るんですよ。そういうものもアメリカやヨーロッパのデザインに影響されて出来たスタイルじゃないかと思いますね。当時の日本のデザイン界は海外のデザインを盛んに模索していた時代でしたから。

では、背景色に関してはいかがですか?『ぴあ』の表紙ではベタ塗りのものからイメージを描写しているものまでありますよね。

背景もそれぞれにドラマを設定しているわけですよ。例えばETは、映画の中からイメージを引っ張っている部分はありますけど、そこに一枚の絵として定着させるために、自分なりの空の紺を想定していたんでしょう。どこまでがグラデーションで明るくなってどこからが暗くなるのか。月が空の中へ溶け込んでいくような、あの月を描くのには苦労しました。ああいった絵が思うように出来ていく過程には、自分が絵の中で一瞬遊べる時間があるんですよ。自分が絵の中にちょっと入っていけるようなね。そういう体験が出来るとすごく成功かなと思いますね。

絵の中に入っていけるというのは、ご自身の体験とリンクしているんですか?

例えば、ローリング・ストーンズのバックの入道雲は、大連の海岸で見た入道雲がそのまま出てきているかもしれませんね。マイケル・ジャクソンの絵はまた別で、僕流の皮肉が入っているんですよ。日に日に彼は整形で顔の形が変わってきて、色もどんどん白くなっていったでしょう。これ以上、白くなりようがないだろうということで真っ白にしたんですね。僕が一つひとつの絵について説明することはないですけど、見た人がそこまで読み取ってくれたら面白い。ただ、展覧会をやる時には全ての作品の下にコメントを書きますけどね。それが面白いんだと、皆さん言ってくださるんですよ。

最後の『ぴあ』の表紙は2011年7月でしたが、当時のお気持ちとしては達成感よりも寂寥感の方が占めていたのでしょうか。

やっぱり少し複雑でした。でも、どこかで必ず物事には終わりがありますから。インターネットに情報が移行しているのは分かっていましたし、来るべき時が来たなとは思いましたね。それで、次にやろうとしている計画があってですね。僕が生まれ育って現在に行く過程を"ドリームマップ"と称して、「夢の地図」を描いていこうと思っているんですね。2m×2m70cmのキャンバスにシリーズで30枚ぐらいは描きたい。それが完成したら、面白い展覧会が出来るかなと思っています。横須賀が完成しているのでお見せしましょうか。

ありがとうございます。是非、拝見させていただきたいです。

実際の横須賀はこんな風景ではなくて軍港ですから、もうちょっと暗い部分があるんです。それを思い切り明るく描きたかった空母を豪華客船のように艦上でプレスリーが歌い踊り、"アメリカンパーティー"の世界。ヨコスカをラスベガスのように描きたかった。だから海の色はマリンブルーなんです。

日本の海には使わないような色使いですよね。よく見ると、いま話題のオスプレイの絵もあるんですね。

これを風刺と受け取ってもらってもいいですし、人それぞれ何通りもの解釈ができるので、一枚の絵をじっくりと見てもらいたいんですね。横須賀にも日活映画が盛んな時期がありましたから裕次郎がいますし、山口百恵ちゃんは横須賀出身でしょう。彼らと同次元に黒船が入港して来たり・・。この絵には色んな時間軸が共存しているんです。こういう「ドリームマップ」を次は僕が住む中央林間、大連、それから東京は三枚ぐらい描かないといけないでしょうね。さらに日本を出てニューヨーク、ロサンゼルス、パリ、ロンドン辺りに行こうかなと。

ドリームマップは集大成としての意味合いが大きいんですね。中央林間は緑がキーカラーになると思いますが、また大連はどんな色になるんでしょうね。

まだなんとも言えませんが、大連の場合はね、僕にとっての天国と地獄が詰まっているんですよ。生まれたばかりの頃は豊かな生活の世界でしたけど、そこに突如として敗戦によってソ連軍が入り込んでくる恐怖を味わって、一遍に地獄になっていく。それから逃げるようにして日本に帰ってきたんです。どんな表現にするのかというと、僕は地獄は出来るだけ描きたくない。自分の中にある豊かな大連を中心に置きながら、どこか隅の方に恐怖が忍び寄っているようなものがあったら、絵に厚みが出来るというか。基本的にこのシリーズは全て光が当たる天国を表現したいんですよ。ただ、天国は光が当たれば当たるほど影が暗いから、その辺も忘れずにね。このシリーズを描き終わるまで僕は死ねないわけです。

応援しています、今日は貴重なお話ありがとうございました。


プロフィール

及川 正通 / イラストレーター

1939年満州大連生まれ。神奈川県横須賀市出身。

地元のデパート横須賀さいか屋のデザイン科へ入り9年勤務。その後主婦と生活社に4年ほど勤務。ここで横尾忠則と共同のスタジオをつくり、寺山修司率いる劇団天上桟敷のポスターなどを手がける。1972年「平凡パンチ」に連載した”ドッキリメント劇場”などで注目を浴び、75年9月から廃刊までの36年間、タウン情報誌「ぴあ」の表紙を担当。84年には初の作品集「2043年へのオデッセイ」を出版。2002年、ぴあの表紙を飾った1000の顔、「及川正通イラストレーション作品集」を出版する。07年には「同一雑誌の表紙絵制作者としての世界一長いキャリア」として、ギネス世界記録に認定された。

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